世界ふらふら放浪記

雑記と人生の備忘録

パオロ

今日はちょっと懐かしいローマでのバイト先での話。

 
テルミニ駅そばにあるプリンチペ・アメデオ通り。
そこにあるお土産屋さんでアルバイトをしていました。
 
 
 
 

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その同僚にパオロというウクライナ人がいました。
風体も大きくて(確か)若くて、イタリアに長いこと住んでるのにほとんどイタリア語が喋れない。
 
そんなパオロはお店のボディガードとしてパートタイムで働いていました。
 
ボディガードって言ってもやることないですし、ボスはほとんどお店にいませんからお店の電話で国際電話をかけてキエフだかの実家やローマに住む友達に長電話をかけてはロシア語で世間話したかと思うと怒鳴り合いの口論。すぐ興奮するから声がデカい。ロシア語って発音にストレスがあってよく通るものだから、お客さんも怪訝な表情ですぐに出ていっちゃうんだけどパオロはおかまいなし。ある日ボスが数ヶ月後にやっと届いたテレコムイタリアの請求書をみて初めて通話料がすごいかさんでいることを知って大激怒し、パオロ、お前だな!と言われてもオレじゃないと首を必死に横に振るパオロ(シラを切るのがうまいと本人は思い込んでいる)。でも結局バレて大目玉くらってました。
 
 
パオロは長いことイタリアに住んでるけどあまりイタリア語を喋れない。まともに学校など行く余裕もないし自力で会話を覚えているので過去活用を知らない。だからこの人の会話は全て現在形になる。仕事中もしょっちゅう姿を消しどこ行っていたのかと尋ねると、「僕はタバコを買いに行ってきます」となる。
 
イタリア語には男性名詞、女性名詞があり、パオロを「パオラ」とすると女性名詞になります。ジョークで一度「パオラ」と呼んだら予想以上にウケてくれたので、それからは彼が元気のない時はパオラと呼んだり、本人も「あたしパオラよ」なんて言ってオカマのふりをして逆に笑わせてくれたりしたのでした。
 
 
ボスは実直で裏切らない性格の日本人をたいへん信頼していたので私たちは最も責任のあるレジ係を任せられていましたが、私自身「日本人は特別」といった偏った意識はいつの日からかどんどん薄らいでそのうち全く意識せずになったのもあの頃からだったと思います。だから多分彼らとも仲良くなれたのかもしれません。むしろ、異国で働くよそ者としての辛さや肩身の狭さをきっとどこかで共有していたからだと思います。
 
 
ある日パオロが出勤しませんでした。
明くる日も、明くる日も、パオロは来ません。
携帯に電話しても応答ありません。
ボスもみんなもとても心配して、そのうちきっともう彼は来ないのだと思いました。
何かの事情を抱えていることはよくあることだったし、それは大方穏やかなものではなかったから。
 
 
 
ところがしばらくしてパオロがフラリとお店にやってきました。
右手を包帯でぐるぐる巻きにして。
一体何があったのかを聞くと、こうでした。
 
「ある日の夜、家の外で物音がする。
誰か怪しい奴が表にいるからビックリ。
そして台所の窓を開ける。
見る。
そしたら怪しいオトコ。
襲う。
手が窓に挟まる。
オトコが窓を降ろすから。
病院行く。
痛い。」
 
 
 
パオロはローマ郊外の海のそばにウクライナ人同士で3世帯くらいで身を寄せ合って暮らしてました。
そこの家に強盗かあるいはジャンキーか、はたまたジプシーが襲いにきたと言うのです。
ローマ郊外の海のそばなんて治安が悪過ぎて怖くて私たちは絶対に暮らせませんが、そうせざるを得ない事情を持つ外国人なんて山ほどいました。
 
ローマに住んでるウクライナ人は大体そうですが、まともに職に就くことはほとんど出来ません。
家政婦か皿洗いか工事関係か売春です。
なぜなら不法滞在がほとんどだからです。
だけど国にいるよりもイタリアの方がそれでも稼げるから来るのです。
 
 
お気楽な理由でイタリアにやってきた知識も教養もない日本人。
人生の選択肢がないからイタリアに隠れて住んでるウクライナ人。
そうやって考えると、帰る場所(=国)がある私がいかに恵まれているかを初めて知るのでした。
 
 
私のローマ滞在の数年間はけっして派手なものではなかった。
住むところがなくて路頭に迷いかけたことも何度もあったし、住めればどこでもよかったから贅沢なんて言えなかった。いわゆる、底辺の生活だったといった方が正しいと思います。
だけど、そうならなくては知ることすらなかった、ささやかだけどとても大事なことをたくさん知る機会に多く恵まれたんだと思います。うまくいかないことばっかりで、うまくいかないことが当たり前だったから辛かったですけどね。
 
パオロの話だって、通り過ぎて行ったある日常の一コマに過ぎないのだけど、育った環境や言語も違う、まともに会話もできなくたって築ける連帯感というのは私にとっても心強かったんだと思います。
 
 
以上、パオロの話。
 
<2022年2月27日再掲>
 
追記:
パオロ以外にも掃除婦のウクライナ人がほかに二人ほどいて、昼間のシフトが同じ時はよく一緒に働きました。一人はおばさんでもう一人は若い子です。ユダヤ人の社長は厳しかったので掃除があまいとよく怒られていましたが、二人とも真面目に働いて仕送りのほとんどをウクライナの家族に仕送りしていました。おばさんの方はかなりのドランカーで、仕事中トイレに閉じこもってウォッカをよく飲んでいましたが、別にだからといってどうと言うこともなく、私たちはとてもうまくやっていました。女の子の方に日本から持ってきたもういらない靴をあげたらすごい喜んでくれたのを今でも思い出します。
 
そういえばウクライナ人の大家のアパートに住んでいたこともありましたが、当時は悪いことばっかりだったイタリアは。本当に悪いことが起こるのがが日常茶飯事だった。もし、万が一、今のウクライナも似たような感じなのであれば、本当にどうにかしないとならないのはウクライナも同じなのかもしれません。
 
 
 
もう二度と会うことはないであろう当時の友人たちとその家族、そしてロシア人の友人たちを心から応援し、一日も早く今よりもマシな日々が戻ってくることを心から祈って。