世界ふらふら放浪記

雑記と人生の備忘録

辛抱通り○番地

海外生活の間、私の引越回数は数知れません。
数えるのも嫌になるくらい引越大魔王でした。
終いには住所を連絡するのがおっくうだったので、誰にも住所を知らせませんでした。
(いわゆる住所不定ってやつです。夜逃げ屋本舗ではございませんのであしからず。)

その中で私が一番気に入っていた住まいを、今回はご紹介します。

イタリア、ペルージャ
ここで新しく生活するに当たり部屋を決めたものの、牢獄のような凍てついた部屋と、飲んだカップを洗わずして棚にしまう大家さんにうんざりしてしまい、一ヶ月もならずに引っ越し。


ところが二度目がビンゴ。


大学、三流映画館、中国人経営のスーパー、八百屋、ウンブリア州独特の塩気のないパンを売るパン屋、
『インフルエンザの為しばし休業』と書かれた看板を何ヶ月もぶらさげたアーティストがいる雑貨店。
そんなお店が点在する、ペルージャの中心地の裏通りにある、一人暮らし用のアパートでした。

イタリアの中心部は特に、全てが古い。よって、様々な事件も起きる。


【事件簿①】 突然の断水
朝起きたら断水してます。予告もなくです。復旧の見込みなんて当然連絡くるわけないので、断水が終わるまで友人の家へシャワーを借りに毎日通いました。


【事件簿②】 突然の停電
夜、いきなり電気が消えます。
住んでいるのは殆ど学生。
上の階から「パソコンのデータが全部消えた~」と悲壮感漂う声が聞こえてきて、心底同情したものです。
試験前夜、電気が消えたら教科書の文字が読めません。

でも大丈夫。

ろうそくって手がありますからね!

なので、ろうそくのおぼつかない灯かりの下で必死に文字を追う。
でも火のチラチラした灯かりでめまいがしてくるので、窓際にいって街灯のわずかな灯かりの下で本を読んだものです。


【事件簿③】 ヤモリ
これは恐怖です!!イタリアには結構いるんです、ヤモリ。こわい~!!!!壁にピタッとくっついています。
日本から持参したキンチョール(どうしてあんなものを持ってきたのか未だに謎)を一度シュッとかけたら、ものすごい勢いで走り出したため、怖ろしくて怖ろしくてその日は部屋から一歩も出られませんでした。(今思い出しても鳥肌が立つ)
イタリア人は全然怖くないみたい。むしろヤモリは座敷わらし的感覚みたいです。


【事件簿④】 給湯器の故障
しょっちゅう壊れます。でも大家さんが良い人だったのですぐ駆けつけてくれました。駆けつけてくれたのはいいんだけどプロではなくアマなのでなおせません。「ここは日本と違ってすぐなおるような国じゃーねーんだよ。」と
大家さんはブツブツ言ってました。パスクア(復活祭)の近くにまた給湯器が壊れた時は、パスクアに食べるハトの形をした手作りケーキをおみやげに持ってきてくれました。

これらの事件がコンスタントに繰り返されるような家だったんです(もちろんヤモリも含め)。


でもね、居心地がすごくよかった・・・。


建物の呼び鈴は壊れているので、誰かが遊びに来た時は、
外から「beabea~」とか「チャオ、ピッコラ(ちび)!」と呼んでくれればベルがなくても大体気付く。

郵便ポストはもうどのボックスが誰のものだかさっぱり分からなくなっているので、
郵便やさんは入り口にごみのように郵便物をポイポイッって投げ捨てていきます。
床に散らばっている手紙の中から自分宛のものを探す。

小さいバスタブから窓の外を見ると、
崩れかけた瓦礫のような屋根の上に月がポッカリ浮いているのが見える。

裏手にあるバーはいつもたくさんの人で深夜まで賑やか。
夜、窓を開けて過ごしていると、いろんな音が聞こえてくる。
誰かが弾くピアノの音。各国の留学生が話す様々な言語。
そんな誰かの笑い声や真剣な声に混じって流れるピアノは、まるでそれ自体がBGM。
窓を半分開けたまま、まるで優しいささやきみたいな雑音をききながら眠りにつくのが一番好きだった。。。

さて、ここまで長いこと読んで頂いた方だけに、その部屋の全貌を写真にてご紹介。


> リビング兼ベッドルーム

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> 部屋の窓の外はお屋敷みたいな家の外壁しか見えません。

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これがなんの紋章なのかは結局知らずじまいでしたが、おそらくペルージャに由縁のある一族のものに間違いはないでしょう。フィレンツェメディチ家も似たようなやつですから。


> その頃はダ・ヴィンチの「白貂を抱く貴婦人」を部屋に飾っていました。

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もともとポーランドの美術館に所蔵されているものなのですが、たまたまフィレンツェのピッティ宮殿で大々的に展覧会を行っていた時に買ってきたものです。
これまでに「鳥肌が立ったもの」といえば、ミケランジェロの「木彫りのキリスト」とこの絵だと思う。
モナリザ・・・子供の頃、悪事のおしおきとして部屋に閉じ込められたんですが、その部屋にモナリザの複製が置いてあったので、以来怖いイメージの方が強いんです。)


> キッチン

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ここはかなり気に入っていました。使い勝手がいいんです。
うしろを振り向くと冷蔵庫と小窓がついていて、日当たりも風通しも良く、そして怖ろしい事にヤモリ進入率がかなり高い場所でもありました。


ご存知かと思いますが、イタリアだけじゃなくヨーロッパは備え付け家具になっていますので、インテリアもクソ(失礼!)もありません。あるものを使うだけです。塩とかは前に住んでいた人が置いていくんですよね。


このアパート。

大家さんと一緒に初め見に行った時、私は思わずエッ、と言ってしまいました。
なぜなら通りの名前のプレートに、「Via della pazienza」 と書いてあったんです。
普通、通りの名前と言ったら「アレキサンダー」とか「ヴイクトリア」「ユゴー」とか偉人の名前をよく使うんですが、うちだけは違いました。



Via della Pazienza = 辛抱通り



こ、これは何かの啓示なのかしら。と思った瞬間に、空を飛んでいたハトのフンが私の肩にポトリ。
それを見て大家さんの奥さんがこう言いました。

「ハトのフンが落ちてくるって”porta forutuna"(幸運を呼ぶ)って言われているのよ。」


どんなに不便があろうとも、それに順応していくしかないという術を教えてくれた家。
そして愛情たっぷりの、引越し大魔王だった私が、心底ほれ込んだ部屋。

愛すべき辛抱通り○番地。
今は私の携帯アドレスとしてなおも生き続けています。
思い出が深すぎて、離れて以来二度と訪れてはいない場所。

チャオ、ヴィア デッラ パツィエンツァ(vila della pazienza)。
あのアパートが朽ちて潰れてなくなっていないことを祈ります。
そして今も、どこかの国の学生が同じように停電や断水に絶えながら、ろうそくの下で勉強していることと思います。イタリアに「進化」という言葉が存在しないように、それはおそらく変わっていないと思う。
2008年を迎えようとしている今でも。
また、逆にそうであってほしいし、
変わらないで在り続けていてほしい。

Tutte le esperienze e la vita a Perugia ancora vivano nella mia cuore come una memoria indimenticabile.