世界ふらふら放浪記

雑記と人生の備忘録

エッセイの本音と建前

先日読んだ二冊。


石井好子さんの本は友達が去年の誕生日にくれたもの。60年代(だったかな)のパリのキャバレーで活躍なさった実在のダンサー兼シンガーの方で、当時は今よりもそれなりに日本人はとかくヨーロッパでは生きにくいであろう時代に、着実に自分の居場所を作り上げていった姿が気取らず堂々としていて、それでいてどこか奥ゆかしい。そういう力強さにとても共感を覚えた。
(「女ひとりの巴里暮らし」とありますが、実際は妹さんと暮らしてらしたのでなぜこのタイトルがついているかは不明)



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もう一冊は翻訳の第一人者といっても過言じゃない柴田元幸氏のエッセイ。

とってもやわらかいタッチの文章をお書きになる方で(意外でした)、非常に読みやすくじんわり染み渡るような作品だった。最後のあとがきに書かれていたお祖母様とのお別れの思い出の下りは僭越ながらなんかわかるなぁって思った。自分にも似たような経験があって、私が子供の頃におじいさんが危篤の時に病院に駆けつけたら、お布団からはみ出ていた足が見たこともないような紫色になっているのにとても驚いて、「おじいちゃんにお迎えがきたんだなあ」って子供ながらに思った。普段けして見えないあの世との境界線がほんの一瞬見えるような気がするのはそういう時だと私は今でも思うのであり、そのたびにおじいちゃんの足を思い出すのだった。




こちらは古本の「暮しの手帖」に掲載されていた旅エッセイ。
発行は1976年の冬。
ユーゴスラヴィアを旅した時の様子がとにかく気が滅入るような雰囲気だった、と言ったような内容。おそらく曇天で景気の悪い当時のベオグラードや周辺の町がそうさせたのだろう。1976年ですからね。私が訪れた2016年(だったかな)とは全然違うだろうし観光地なんかでもなく、それこそ爆撃40回くらっている長い歴史のさなかにいたでしょうから人々も暗かったことと思う。


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率直な印象がとても新鮮で逆におもしろかった。むしろそのほうが臨場感があって説得力がある。






私自身旅好きだからこの手のエッセイはわりと読む方だと思うけど、近頃思うのはなんだかどこでも「むりやりポジティブ症候群」が多すぎるのではないかということ。物事は無理をしてでもハッピーでいなければならないっていう傾向が少なからずあるような気がして、はっきりいってそういのがむしろ疲れる。
(へそ曲がりな大人ですみません)


昨年ニューヨーク特集の旅エッセイ誌を読んだけど、なんだか薄っぺらいというかやっぱりどこかニューヨークを崇め倒すようなところがあってなんとなくしらけた。いろんな歴史を乗り越えて大きく変容したビックアップルニューヨークシティ。今は世界一コストのかかる高い街になってしまい、家賃の高騰で小さな商店は廃業に追い込まれ、夢追い人はどんどんマンハッタンから締め出され、個性も伝統も少しずつ失っていく一方で単なるアラブとチャイナの金持ちが支配する富裕層シティニューヨーク。未来は今どう変わろうとしているのか。生粋のニューヨーカーは今何を思っているのか、なんてところにフォーカスしてくれた方がよっぽどエッセイとしては魅力があった(個人的意見ですが)。



私たちは少なからずともこういったメディアのタレコミにいくばかは影響されているのはもちろんだし、情報というのは常に生き物だから絶対的な定義はないのだけれど、大なり小なりの情報に日々まみれているからこそ「事実」というのは深みが出てくるのではないかと思う。




以前私もブログでイタリアのレッチェという南の町のことを書いた。あけすけに言いたい放題したら、「ずっと前から行こうと憧れた場所だったのだけど、これを読んでイメージが崩れて行く気がなくなった」といったようなコメントを頂いた。申し訳ない気持ちになって気をつけなくてはいけないなあとあの頃は思った。




でも、文章って結局そうやって意識し始めるとつまんなくなるような気がする。











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まあ、私は作家でもなければ単なるブログだし大義名分なんか必要ないのだけど、薄っぺらいイメージにならないよう生身の等身大で今後も続けていこうと思います。