世界ふらふら放浪記

雑記と人生の備忘録

ナポレオンⅡ通り

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テルミニ駅から程近いその通りは、物騒な界隈の一角である。
近くにはPiazza Vittorio(ビクトリー広場)と呼ばれる大きな広場があるが、普段はパキスタンバングラデシュ、モロッコ人やアフリカ人、中国人のたむろする異国情緒漂う広場であり、あそこを夜一人で歩こうとする勇気のある人がいるなら、褒め称えるというよりもむしろ軽蔑に近いものがある。

そこのすぐそばにあるVia NapoleoneⅡに、友人が住んでいた。

イタリアのレッチェ出身のロベルタ。
アメリカのペンシルベニア出身のリッチー。
そして日本の大阪出身の旅友。

ロベルタは弁護士の勉強をしていた。南イタリアレッチェという田舎からローマに上京してはや数年。
貧しい苦学生だったので、ルームシェアをしながら生計を立てていた。この人はイタリア人にしては本当に珍しく、偏見も裏表も何もない、純粋な人だった。

リッチーは糖尿病を患っているにも関わらず、カトリック宗教の勉強?だったかな、何か忘れたけどとにかく何かを勉強しにローマへやってきた。英語で全部通用すると思っていたおのぼりさんで、食事中に怖ろしいゲップをし、テーブルにこぼれたスープをすするくらいの野蛮な行動が多かった為、「アニマル」とあだ名をつけられた。

そしておなじみの旅友。
彼女は何気なくローマに来て、何気なく住み着いてしまった一人。
でも誰に甘えることなく、ちゃんと働いて自立して生活していた。
お兄さんは素晴らしい絵描きで、パンテオンのそばにあるバーや、なじみのペンションの壁画をものの一週間で描きあげた人。誰しもが舌を巻くほどの、見事な見事な絵を描いた。(その後、報酬の支払いで揉めた。イタリアとはそういうところなのである。)


ここでよくフェスタ(パーティー)をした。
近くのスーパーで安いワインとパンを買い、旅友がおかずを作り、おしゃべりをし、うるさいと近所から怒られた。復活祭、誕生日、クリスマス、そんな行事がなくても自然と集まり、そんなふうにささやかだけどフェスタをした。

Kさんという生粋の、生涯旅人みたいな人がいた。
旅友がそこに住む前にいた住人だ。旅の途中ですっかりインドに魅了され、2年ほど暮らしたせいか、
家を歩く時は常に裸足だった。朝は瞑想にふける為、どんなに部屋の戸を叩いても出てこない。「全ての欲情がこの瞑想によって平らになるのだ。」と訳の分からない事をいってみんなを困らせた。
私に仕事を紹介してくれたのもこの人で、待ち合わせるときはいつも4ツ星ホテルのロビーだった。なぜならそこはくつろげて暖かいからという彼のアイデアはホームレス的発想に限りなく近い。会うといつも板チョコをバリバリかじっていた。「イタリア人に道を尋ねる時は三度聞け」はこの人の格言である。
その後Kさんはスペインへと旅立ち、バルセロナで腰をすえたと聞いた。一国集中タイプのようである。



ある日、台所のすみにうずくまっているリッチーを見つけた。
泣いていた。
どうしたのかと聞くと
「僕はイタリア語が話せない。」
そう言って、まるで子供のようにしゃくりあげて泣いた。

仲間の友人でS君という人がいた。コックになりたくてローマにやってきた。
お酒も大分入ってみんなが寝静まった頃、S君はこう言った。
「僕は、何もかも逃げ出してイタリアに来たんです。人身事故やっちゃってね。だから僕はずるいんですよ。」

路上でギターを弾きながらチップで生活している人がいた。
彼はフェスタのたびにどこで聞きつけるのか、誰に誘われるまでもなくやってきた。
ただ、彼が弾くギターは見事だったから、私とリッチーは床に座って夕暮れの光が差す部屋で彼のギターを黙って聴いた。


Rさんという母ほど歳の離れた人がいた。
彼女は夫と離縁し、私と同じ歳の、別れても仲良しだった娘さんもいた。
「ずっとかわいがってたワンちゃんが亡くなっちゃったのよ。それがキッカケ。」
二子玉の一等地にそびえるマンションでの社長婦人の生活を全て捨てて、ローマに来て安い古びたアパートに暮らし、週に何度か日本語を教えていた。断じて言うと、Rさんは放蕩生活に飽きてその生活をしていたわけではない。自分の人生を変えてみたかったのだ。たとえそれがどんな結果であろうと。
冬の寒い夜に、ジャガード織のステキなコートを差し出し、これしかないけど布団代わりにして。と言った。そんな上等なものをお借りするわけにはいかないと丁重にお断りすると
「別れた主人がタダ同然でもらってきたものよ。こんなの今となってはどうだっていいから気にする事ないわ。」
そう言ってほがらかに笑った。

夜、小さい声で目が覚めた。
ふと見るとRさんが寝言を言っているのだった。「○ちゃん、○ちゃん。」
それは娘さんの名前だった。Rさんは娘さんの夢を見ながら泣いていた。


あの頃の私たちは、身を寄せ合うようにして生きていた気がする。
自分の矛盾や理不尽さ、つじつまの合わないことにいちいち逆らいながら、諦めながら。


数年後、ロベルタのところに行った。私が日本に帰ってから4年が経っていた。
ロベルタとリッチーはひょんなことから結婚し、子供を二人抱えていた。
ロベルタは出産の為、あともう一歩というところで弁護士の道を諦め、リッチーはヒッピーだった髪をバッサリ切って真面目に旅行代理店で働いていた。もうすっかり冗談でもアニマルとは呼べなくなっていた。彼とは親友みたいなものだったので、私としてはちょっと寂しい感じがした。

託児所へ子供を一緒に迎えに行き、コロッセオの見える丘公園までロベルタと散歩した。
今の生活に満足か、とか・・・そんな話をした。
ロベルタはこう言った。

「Questa e' la vita. La vita e' tutto cambiata, beabea. E' cambiata completamente.」

これが人生よ。人生は変化しているの。何もかもが変わってしまったの。


しばらくしてRさんが亡くなった。
気付いた時には末期癌で手遅れだったという。
最期に会ったのはそのロベルタを訪問した一週間後。おいしいフォカッチャとスープを振舞ってくれた。
台所でお喋りしていると、近所の窓から「くそったれ売春婦!」と叫び声が聞こえた。
それを聞いて彼女は静かに窓を閉め、こう言った。
「もうすぐね、○ちゃんが結婚するの。そうしたら私、日本に帰るわ。」


選択肢はそれぞれが掌握している。
どういう人生を進むかは、自分に委ねられている。
感情をどのように咀嚼し、かいつまんで飲み込むかも全部。

ただ一つだけ言えることは、みんな必死だった。必死に生きていた。悩みや不安や憤りをいつでもどんな時でも胸に抱え、それでもひた隠しにして生きていた。私たちは通りの向かいのアパートから聞こえるsummertimeのトランペットの音色にブラーボブラーボと手を叩き、口笛を吹いた。笑いながら、みんな苦しみを抱え、将来の不安を抱えていたのだ。

これは特別なことではない。
日本にいたってそれは同じである。
けれど、国籍のない場所でかかえるありとあらゆる差別と、どうあがいても同等にはなれないイタリアとアジアの歴然とした格差。才能が秀でていようが実力があろうが、踏みつけられる屈辱感。日本人も中国人も見分けがつかない彼らからしたら、私たちの存在なんていかにちっぽけか。どれだけ利用されるかされないかの駆け引き。

だからこそ、堂々と生きていく必要がある。
踏みつけられようが罵倒されようが、自分を信じずに一体誰を信じようというのか。
けれど、自分だっていつもまっとうに歩いていけるわけではないから、分岐点にきたら立ち止まる。
考える。悩む。思い踏みとどまる。決断するまでの長い間は、葛藤をひたすら繰り返す。
「あれは間違いではなかった」とか「間違っていても人生勉強だった」とは、結果言えることであり、過程においてはそんなの誰も分からない。そんな不安定な自分を堂々と自信をもって信じられるかと言えば多分答えはNOだと思う。決断のタイミングは悠長に待ってはくれない。答えが出なくても進むしかない時もある。右か、左かを今すぐに。どうしたらいいのと自分に聞いても、自分は冷たく「分からない」としか答えない。


辛酸を舐めたとか
ただの苦言に過ぎないとか
そう言われればそうかもしれないし、否定もしない。

でも言いたいのはそういうことじゃなくて
あの頃みたいに今も必死に生きているかと問われると、全然そんなことはない。
だから今の私の悩みなんてちっぽけすぎて話にならないような気がする。

Rさんの訃報を聞いたとき、すぐさま娘さんの連絡先をローマで調べてもらったのにも関わらず、
私はまだ行けていない。連絡すら取れずにいる。
なぜなら、触れてはいけない境界線を感じてきてしまったから。
最期にRさんは厚手のダウンコートを広げて言った。
「これ、今日買ったの。ほら、ナポリに添乗に行く時ポンペイに行くでしょ?秋はもう風が冷たいから。」
Rさんは同士だった。私が何度も落ちた時にたまたまそばにいた(運の悪い)人だったから、何に傷ついて何に悔しかったのか、十分すぎるほど分かってくれていたような気がする。私の背中を押すのではなく、優しく撫でてくれるような人だった。そんなRさんの墓前で、一体私は何を言ったらいいんだろう。訃報を聞いたときも信じられなくて今でもそうだけど、とどまるところ、私は認めたくないんだと思う。いろんな思い出や経験に終止符を打ちたくないのかもしれない。すごく自分勝手だと自分でも思う。

みんな過ぎ去ってしまった。
ロベルタが言ったように、人生は変わった。
それは春になったら夏になるみたいに、2008年が終わったら2009年のカレンダーをめくるように、ごく当たり前の変化なんだろう。
けれど、怖いのは、私だけが何一つ変わっていないのではないかという事。

あの時のままで一人取り残されているんじゃないだろうかと。