ジョージ・オーウェルは天才だ。
1人の主人公が自虐的にひたすら自分を追い込んでいく何とも暗い話。
主人公のゴードンは考える。
世の中はすべてお金に操られている。
幸せの象徴、それは虚像にすぎない。家族、恋人、仕事、友人、すべてはお金がからんでいるからこそ幸せなのだ。そこから抜け出す為に全てを捨てて、お金の絡まない世界に身をゆだねたらどうなるか。破滅、堕落、孤独。全てを逸脱し拒絶していろんなものを削ぎ落としたら、本来の生粋の本性がさらけだされるのではないか。それこそが人間の真なる自由ではないのだろうか、と。
それをストイックに実践するのだけどその醜態っぷりがこの本の魅力。
ほとんど被害妄想と自我の格闘の世界でとにかく無様なゴードンの姿を、半ば気の毒に思い、半ばあきれ果てながら、少々の母性本能と多大な好奇心でとにかくこの主人公とその先が気になって仕方がなくなってくる。本当にどうしようもない最低のところまで落ちてもなお、ゴードンは満足することがない。もっと下へ、もっと下へどこまでも転落していきたいと思っている。その徹底ぶりは見事としかいいようがない。
でも気付いてしまう。
どんなにどん底まで落ちてしまっても、どんなに誰かと関係を切ろうとしても、意外と周りはそうはさせてくれない。どん底っていうのは自分が思っている程どん底にはなりえない。電話一本で誰かに助けを述べたら、誰かがその暗闇から拾い上げてくれる。
ただそれだけのことなのだ。
お金に支配されているとか正義だとかなんとか言っても、そういうことが問題ないんじゃないっていうことにようやくゴードンは気付くのだ。というか、最後は「妥協」したっていう方が正しいのかも。
そして葉蘭はこの本で言う、お金持ちの象徴。
イギリスの中産階級の家にはこの葉蘭が必ず置いてあることから、この葉蘭が物語の中で何度も何度もいい差し味になっていた。
ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」は人生のうちで忘れられない本の一つであるけれど、ジョージ・オーウェルもかなり同じインパクトがある。言葉ではうまく説明しにくい洞察力と読み手を操る作者の意図というか技巧がとにかくうまい。
こういう本を読むと、なんかこう物語の展開もそうだけど、知らないうちに著者の思うがままにまんまと振り回された、という「やられた」感があってとても気持ちがいい。