この本を読んでいたら、何かこう、長い一本の映画を観ているような気分でぐいぐい引き込まれた。
村上春樹さんの『1Q84』がこれに基づいているのではないかといった憶測が巷に溢れ、便乗してヒットになったジョージ・オーウェルの新訳版、『1984』。村上ファンとしてはやはりこれを見逃すわけにはいかない。
(あらすじ)
「ビック・ブラザー」と呼ばれる政党が牛耳る世界はまさに反ユートピアのカルト社会。過去も未来も徹底的に改ざんされ、マインドコントロールによって人々の感情を叩き潰していく姿を淡々と描く近未来サスペンス。
「ビック・ブラザー」と呼ばれる政党が牛耳る世界はまさに反ユートピアのカルト社会。過去も未来も徹底的に改ざんされ、マインドコントロールによって人々の感情を叩き潰していく姿を淡々と描く近未来サスペンス。
ウィンストン・スミスは記録局で過去の歴史を改ざんすることが仕事だった。普段の日常生活は「思考警察」の徹底的な管理化に支配され、部屋にはテレスクリーンが置かれ、歩道にも街角にも隠しマイクが潜んでいる。街には巨大な顔のポスターが貼られ、どこを歩いてもその目がこちらを見ているように描かれたその顔の下にはこう書いてあるのだった。
ビック・ブラザーがあなたを見ている
政党のスローガンはこうである。
戦争は平和なり
自由は隷従なり
無知は力なり
自由は隷従なり
無知は力なり
この物語に登場する怖ろしい世界にはいくつかのルールが存在している。
・二分間憎悪
人々の不満は全て「二分間憎悪」と呼ばれるフィルムを観ることで吐き出される。
そこには人民の敵とされるゴールドスタインと呼ばれる反革命家運動を起こして追放された男の顔が浮かび上がる。党の純潔を汚したその男をスクリーンで観るたびに、人々は怒号し半狂乱になってすさまじい怒りをぶつける。このようにして、党は人々のはけ口を一方向に限定させてコントロールする。
人々の不満は全て「二分間憎悪」と呼ばれるフィルムを観ることで吐き出される。
そこには人民の敵とされるゴールドスタインと呼ばれる反革命家運動を起こして追放された男の顔が浮かび上がる。党の純潔を汚したその男をスクリーンで観るたびに、人々は怒号し半狂乱になってすさまじい怒りをぶつける。このようにして、党は人々のはけ口を一方向に限定させてコントロールする。
・ニュースピーク
人々が余計な知識から革命的な思考に結びつかないよう、あらゆる無駄な言語を消去し、シンプルな造語を作る。表現力を助長されるような言語(ツール)は出来るだけ少ない方が都合がいい。
人々が余計な知識から革命的な思考に結びつかないよう、あらゆる無駄な言語を消去し、シンプルな造語を作る。表現力を助長されるような言語(ツール)は出来るだけ少ない方が都合がいい。
・改ざん
ビック・ブラザーは絶対的シンボルである。彼が発したことは常に絶対でなければならない。
だからどんどん歴史も過去も塗り替える。彼は常に卓越したパワーを秘めた世界のカリスマでなければならない。
ビック・ブラザーは絶対的シンボルである。彼が発したことは常に絶対でなければならない。
だからどんどん歴史も過去も塗り替える。彼は常に卓越したパワーを秘めた世界のカリスマでなければならない。
・快楽至上主義の抹殺
物語の中では様々な欲求が制限される。制限される欲求は完全に支配化に置かれるか、逆手にとって利用される。愛とか友情だとか、そのような情は一切存在することはできない。なぜなら「ビック・ブラザー」が唯一の信じることができる現実であり、それ以外は幻に過ぎないからだ。
物語の中では様々な欲求が制限される。制限される欲求は完全に支配化に置かれるか、逆手にとって利用される。愛とか友情だとか、そのような情は一切存在することはできない。なぜなら「ビック・ブラザー」が唯一の信じることができる現実であり、それ以外は幻に過ぎないからだ。
・二重思考
二重思考とは簡単にいうと、心に思っていることとは真逆のことを唱えることを言う。このパラドックスを徹底的に潰すべく、ビック・ブラザーの党中枢は人々を監視し洗脳させ、「もしかしたら」とか「実は」などと思わせないように厳格に管理する。抵抗勢力は存在しない。あっても即抹殺されることになっている。
二重思考とは簡単にいうと、心に思っていることとは真逆のことを唱えることを言う。このパラドックスを徹底的に潰すべく、ビック・ブラザーの党中枢は人々を監視し洗脳させ、「もしかしたら」とか「実は」などと思わせないように厳格に管理する。抵抗勢力は存在しない。あっても即抹殺されることになっている。
生活がどれほど貧しかろうが、食料が乏しかろうが、不平不満を持つものはいない。なぜなら、過去にもっとよりよい生活があったことを人々は知らないからだ。そのように歴史は常に改ざんされているのだ。真実は日々大量生産される。けして過去をなぞらない。
主人公が拷問にかけられるシーンで、彼はここでも徹底的に人格を叩き潰される。
「2+2は5である」
最初は否定するウィンストンが次第にそれを信じ込むあたりに底知れぬ不気味さを感じる。そこにはロジックとか常識という言葉は存在しない。近頃物議をかもし出した冤罪事件などもそうだが、やってないのにやったと自白させられることは殆ど人間破壊に等しい愚行だと思わずにはいられないのである。
そのように賢明に自己を死守しようとする主人公・ウィンストンの抵抗も虚しく、白々しい世界は永遠に続いていくのだ。
例えそれが不幸だとしても、不幸を不幸だと思わなければ幸せに過ぎないのである。
なんて怖ろしい物語なのだろうか。
数年前に読んだカズオ・イシグロの「私を離さないで」に少しだけ似たような(あれほどの美しさはないいにしても)虚無感がしばらく余韻を引き、そして読了後の深い満足感を考えると、十二分に読みごたえのある本であったのは間違いない。
数年前に読んだカズオ・イシグロの「私を離さないで」に少しだけ似たような(あれほどの美しさはないいにしても)虚無感がしばらく余韻を引き、そして読了後の深い満足感を考えると、十二分に読みごたえのある本であったのは間違いない。
他のオーウェルの作品として「象を射つ」と「絞首刑」という短編があるのだが、物語の緊迫感と情景が色濃く鮮明にありありと浮かび上がってくるようなリアリズムと静かなダイナミズムを感じることができる、これもやはり素晴らしい短編小説である。何度も何度も思い出しては、それらの作品の良さをしみじみと振り返ったりすることも少なくない。政治色が強い作品では「動物農場」も有名なので、「1984」を得意とする方はそちらもお薦めしたい。
どうやらジョージ・オーウェルという作家はとても説得力のある力強い作家であることに間違いないと、この作品を読んでますます実感したので、しばらくしたら他の本も読んでみたいと思う。
(ほんとにおもしろかった!)