世界ふらふら放浪記

雑記と人生の備忘録

3.11から半年

3.11から半年が経ちました。

14:26に黙祷しました。

私たちは東京で普通に生活しているけど、すぐ隣りではたくさんの犠牲者がいることや、たくさんのことを失った人、奪われた人、海にのまれた人や目の前で助けを請いながら波に流されていくのをどうすることもできずにただ立ちすくむしかできなかった人たちの辛さ、悲鳴、老人や子供、近所の人や友達、過去の思い出や伝えきれなかった無念や後悔。一瞬にしてなくなった思い出や取り返せないこと。
そんなことを考えると黙祷しながら涙が出た。



みんなそうかもしれないけど、私は今でも3.11のことを考えると悲しくて仕方がありません。

「いつもどおりの生活をしよう」
そういってみんなはいつもどおりの生活に戻りました。
でも、被災地の人たちはいつもどおりの生活にはずっと戻れません。





今だから言いますが、実は私の親戚が被災し、従兄が亡くなりました。
家が全壊した親戚は仮設住宅に暮らし、津波の被害を間逃れた親戚では初盆を迎えました。
今年の夏は夏休みを利用して大槌町へ行ってきました。

これは釜石駅前にある物産センターです。
2階は現在震災対策本部になっています。




イメージ 1





数年前にここに友人と訪れた時に入った、懐石料理のお店や寿司屋は津波にのまれて姿かたちもありませんでした。というか、どこからが街でどこからがそうでなかったのか分からないような状況です。


イメージ 2





釜石とは岩手県沿岸部の街で、新日鉄釜石という鉄鋼業で昔は栄えた港町です。
ここがハブとなり、近隣の町(宮古市、大船渡市、陸前高田市大槌町)へは三陸鉄道あるいはJRで移動することになるのですが、ご存知の通り駅も線路も全壊し跡形もなくなっているので、タクシーかバスで移動することになります。

私の親戚は大槌町というところに住んでいて、釜石市からはタクシーで15分くらいです。


イメージ 3



おそらくこういう資料はずっと保管されて、いつの日か資料館などが出来た時にショーケースに入れられるのだろうな。













岩手県は2番目に被害の大きかった県ですが、宮城や福島よりもそういうケアが徹底していた。
どこの誰が誰の民家に避難しているかまで徹底的に地元の(本人も被災者なのに・・・)人々の協力で随時報告をし、被災後の交通情報、いつ自衛隊がどこに入るか、避難所の開設のタイミングやキャパ、物資の呼びかけなどを岩手県ツイッターでガンガンアップしていくので、私は毎日電車の中でそれをみて現状を逐一確認することができた。どのニュースよりも早く確実な情報をゲットできるのはとても心強いものだった。


あのような状況下で自治体がここまでしっかりコントロールできていたのは岩手県だけだった。
すばらしい。




これは大槌町の街並。
唯一残った建物はこんなもん。

あとは一面の野原。


以下タクシーの運転手さんの話。







イメージ 4




大槌町津波のあとに火災で一帯が全て焼けてしまった。駅も、線路も、お寺も焼けた。津波警報が鳴ったとき、近くにいた小学生は指定されていた避難所に走っていったが、その避難所が海側に建っている建物だったのでそれは津波に向かって走っていくような愚かなことだった。ある生徒が津波が向かってきているのに気づいて、逆に走れ!と声をかけたので、避難した生徒たちが海に向かって走る者、山に向かって走る者、それぞれ別の方向に分裂しているのを学校に残っていた生徒が一体どうしたんだろうと不思議に思ったら、大きな津波がやってきていたらしい。避難所に向かって避難した行為は正しい。だけど、結局それが裏目に出てたくさんの子供が亡くなった」



「今回の被害を大きくしたのは車。波に流されてお店のシャッターに押し付けられたぺちゃんこになった車をよけると、車とシャッターの間で潰されてぺちゃんこになった遺体がバラバラとでてきた。また、壁にしがみついて流されまいと必死に壁にしがみつき、助けて助けてと叫んでいた人の頭部が、すごい勢いで流されてきた車にあたって吹っ飛んだ。そんなバラバラの遺体が山ほどあった。」



これはうちの親戚のお墓です。





イメージ 5




お寺の本堂は焼けてなくなりましたので、焼け野原の片隅にこんなふうに墓石がかたまってます。
墓石があっちこっちに倒れていました。


「これでもボランティアの人たちが一生懸命きれいに片付けてくれた。町の人たちは何もしないでただ酒ばっかり飲んでいた」とタクシーの運転手さんはぼやいていました。私は無言で何とも答えられませんでした。



この写真の奥に建物がいくつか見えますが、大槌町で残っている建物と言えばこれくらいです。
手前のお寺の鐘の姿をみればどれだけその被害がすごかったかが分かるかと思います。
鐘の横には蛇様がいます。
蛇様は見つかってもらえたんだな。。。



イメージ 6





あまり写真を撮ると不謹慎な感じがしたのでこれくらいしか町の写真がありません。


震災後の映像で大きな観光船が建物の上に乗っかっていた映像、覚えている人いるでしょうか。
あそこが大槌町です。
町長さんが亡くなりましたが、うちの従兄はその町長さんと一緒に亡くなりました。
災害対策会議を開いている最中に津波がきてしまったそうです。
あっという間だったみたいです。



町までいく途中の小さな部落のあたりの林には、たくさんの衣類や布切れがいまだにぶら下がったまま。でも、がれきはすっかり撤去され、きれいに片付けられていました。自衛隊やボランティアの方達のおかげでしょうね。更地になったところには、すでにたくさんの雑草が茂り始め、それが町の跡形をどんどん消していってしまうような、そんな寂しさも感じました。



東日本大震災で、我々の価値観は大きく変わったのではないでしょうか。
日本は捨てたもんじゃないなと思わせる程のマンパワーの力、あきれ果てる程に情けない日本の政治とその裏にある黒い東電、いろんなものを犠牲として存在する電力の現実。失望感ばかりだけど、希望を捨てたら人はやっていけなくなっちゃうから、その希望を与えるきっかけづくりを協力することだけはできると思う。

来年になったらふるさと納税大槌町へ切り替えます。
町の復興に役立てて欲しい。


3月11日に被災した全ての人たちと、犠牲者に心から哀悼の意を。
どうか、一日の中で少しでも幸せだと感じられる瞬間が訪れますように。
今日の満月が全ての人々の心を照らしてあたためてくれますように。