最近この疑問を感じていたので買ってみました。
第一章 そもそも「死」って何だろう
第二章 人はなぜ死ぬのだろうか
第三章 宗教でこんなに違う「死生観」
第四章 「死ぬとき」に起こること
第五章 「突然の別れ」と向き合う
第六章 「死」をめぐる質問にお答えします
コラム 世界のお葬式から
いきなり結論、「始まって終わる」
人は生きている間に細胞が少しずつ死んで減っていくのだそうです。それを老化というのだそうです。そうやって機能がどんどん落ちていけばいずれ死ぬ。生がスタートで死がエンド。人が死ぬというのはそういうことなんだそうです。
当たり前といえばそうなんだけど、シンプルにそういうことみたいです。
「お迎え現象」
あの世に逝く少し前に故人が枕元に立って夢に出てくることを「お迎え現象」と呼ぶのだそうです。医学的には「せん妄」と診断されるそうです。亡くなる一ヶ月前あたりは呼吸器が弱まり、体内でガス交換がうまくいかず、慢性的な呼吸不全に陥ることから体内で酸素が不足し、脳が酸素欠乏状態になる。それによって見る幻覚という説です。ところがせん妄とお迎え現象の大きな違いは、せん妄の場合は攻撃的な行動に走ることが多いのに対し、お迎え現象はとても穏やかで幸せな状態であることをいうのだそう。
私の身内も亡くなる数ヶ月前からしょっちゅうその夢を見るようになりました。今思えばあれがまさにお迎え現象だったのでしょう。
もともとオカルト気質の自分ですから、臨死体験の話は大変興味深かったです。でもこれもやっぱりせん妄の一種なのかもしれないですよね。さらに掘り下げようとすれば「魂とは、意識とは何か」というもっと深い話になるようです。
最期のお知らせ
遠くに住んでいる友人や家族が亡くなる時に別れを告げにくるとよく言いますが、それはあるような気がします。たまたま、と言われればそうなのですが、不思議なことが起きて「あれ?」と思うことであれば、それは最期の「お知らせ」なのだと思います。そういうメッセージは気づくか気づかないかのすれすれのところなので見落とさないようにしないとなりません。迷信かもしれませんが、物が割れるのはその最たるものですよね。
あの世からの交信
これは実際に自分に起こったことです。
- お父上を亡くされた親しい友人をねぎらうために電話で話している時、ふと気づくとうちのお位牌のそばにかけてあった数珠がすごい勢いで左右に激しく揺れていることがありました
- 同じ年に別の友人のお父上もお亡くなりになり、その件で電話している時に、窓も開けてないし空調もつけていないのに、カーテンがふわっと揺れたことがありました
- 身内の遺骨を持ち帰ってきた最初の夜、誰もいないはずなのに台所の引き戸を開ける音がして目が覚めました。ああ、喉が乾いて水を飲みに起きたんだなと思って、翌日からは引き戸を開けた状態にしてやりました
- うちにお線香をあげにきてくれた親戚が、故人と親戚の間に起こった過去の諍いの話を始めた時がありました。そのストーリーの中には知られざる事実と大きな誤解があって、それは故人と私しか知らないことでした。どうしようかな、今伝えておいた方がいいかなと思ったけれどやっぱりやめる事にして、お茶のお湯を沸かしに席を立ってお位牌のあるお部屋を通り過ぎた時、長い蝋燭がぐにゃりと折れ曲がって消えていたのを見たときはゾッとしました。でもすぐに、故人も話を聞いていたんだなと思いました。本人にしかわからない言い分だって、きっとあったはずです。
(ほかにもいろいろあるけど今日はここまで)
全ては偶然かもしれません。科学的立証もできるものかもしれないからなんでもかんでもスピリチュアルな話に仕立て上げるつもりはありませんが、もしその霊界的なものを信じるのであれば、メッセージはとても小さく気づきにくいものだから、しっかりと見逃さないようにしてあげないとなりません。
前述の通り「死」とは、最終的にからだが機能しなくなることの最終形です。
まぎれもない事実です。
それ以上でもそれ以下でもない。
しかし人が死について討論するのは、まだ誰も経験したことのない未知の世界に対する不安や好奇心、悲しみや絶望という人間本来の感情が付いてくるからであり、つまり「死は永遠の哲学なのである」から、生きることが終わってしまったという事実以外は、永遠に正解のないテーマなのではないでしょうか。
ただ、これはあくまでも「死」に対する主観についての解答です。
本当に自分が欲しかった答えはもしかすると、誰かがいなくなった時にどう死と向き合っていけばいいのかということだったのかもしれません。
自分が死ぬことよりも、今は身近な人がいなくなることが何より辛いです。それをこの先少しずつ重ねていく事になるのだろうけど、老化することや死を考えることよりもその悲しみと向き合っていかなくてはならないことは、生きる者にとっての大きな試練の一つなのではないでしょうか。それについてはまた別の機会に探ってみたいと思います。
(もしかすると池上彰氏じゃなくて、曽野綾子氏あたりの本が妥当だったかも笑)
<付録:タブーワード>
よく90歳を過ぎたご高齢の方が亡くなるのを「大往生」と言いますが、これは身内の方が使う言葉で、他人の方がご遺族に対して使ってはならないのだそうです。「うちの祖母は大往生でした」はOKだけど、「お祖母様は大往生でしたね」はNGなんですって。人生の長さがいくつまでが妥当かを決めるのは遺族の考えによるってことなんでしょうか。
また、両親のどちらかが他界すると「私たちもそういう歳になってきた」とご遺族に向かって言う人がいますが、それはあくまでも自分自身に向けた個人的な解釈でご遺族に対してなんの慰めにもなりませんから絶対使わないようにしています。「そういう歳っていくつからいくつで誰が決めたわけ?」と屁理屈ぶちかまして喧嘩ふっかけたくなります😝