英語をやりたかったから。
イタリア語をやっていたらどんどん英語を忘れてしまって、全く脳みそが「英語」という言語に対して機能しなくなってしまった。当時パリに住む友人も同じことを言っていた。フランス語をやると英語が止まる。第三言語をやる者が抱える共通の悩みだと言っていた。ガイジンなんかは言葉が似てるからスルスルと紐解くように半年もあればマスターしてしまうのだけど、どうしてもそこまで器用に他言語を操ることができないのが日本人の泣き所だと思う(私だけかも)。
同時に、イタリアでやろうと思っていた夢もぼやけ始めてきた時期だったから、環境の変化が必要だったのかもしれない。
美化して言えば、だけど。
こんな動機を振り返ってみると、やっぱり当時の自分は限りなく自由であり時間を持て余していたんだなということがよく分かる。
目の前の先は真っ白なキャンバスで、そこにはいかようにも色を足していけた。
その色を重ねて行くことに「生きがい」を見いだそうとしていた。
新しい挑戦はいつも自分を奮い立たせたし、とにかくそういうのが楽しくて仕方がなかったし、未来は明るいと思っていた。
自分では複雑に生きていると思っていたけど、意外と単純だったのかもしれない。
あの頃はインターネットがようやく普及しかけていたけれど、グーグルもなかったしヤフーは使い方も知らなかった。パソコンを持っている外国人は稀で、私たちはネットカフェへ通い、日本語変換がないから全部ローマ字で打ってやり取りした。
そしてローマのイギリス領事館へいってビザの手続きをし(簡単におりた)、ローマの友人にさよならを告げてロンドンへ発ったのは確か1月のことだったと思う。
どんな気持ちで飛行機乗ったのかは覚えてない。
あの当時日記をつけていたから、探せばどこかから出てくるかもしれない。
ヒースローにおりて荷物を待つも、待てど暮らせどやってこない。
係の人に尋ねるも「そのうち出てくるさ」の一言。
確かにそうだと思ってのんきに構えていたけど、最後の最後でビニールにグルグルにくるまれた私のバックが。。。まっぷたつに切り裂かれていた。
ロンドンは寒かろうにと友達がくれたあったかズボンや、ローマで買ったお気に入りのワンピなどが切り裂かれてズタズタになっているのを見て傷ついた。
やれやれこんなこともあろうかとせっかくブリティッシュエアウェイズにしたのにこのザマとはやるせない。当時はヒースロー空港もよく荷物がなくなることで評判が悪かったけど、まさか自分も被害者になるなんてとんだ貧乏くじ引いちゃったなとふてくされる。カウンターで一通り不満を訴えたあと、保障手続きの書類だけ持ってタクシーに乗ることに。
当時、ヒースローからステイ先の家までどれくらいの距離感かも分からなかったし、リラからポンドに変わる感覚もあんまり感覚を理解してなくて、空港からタクシーに乗った。着いてお釣りの小銭ははした金と思って全部チップで渡したけど、今思えば5ポンド以上渡したような気がするし、むっちゃくちゃ遠かったのでタクシー代すごかったような気がする。でもスーツケースは辞書が入っていて岩のように重かったし、もう一つのまっぷたつに割れたバックの代替でもらったスポーツバックはダサくて大きすぎて引きずる気力もなかったんだと思う。
着いた時のロンドンは冬だったし余計薄暗かった。
何年もイタリアから出たことがなかったから、数日はホームシックかかりまくってとても心細かった。イギリスはむかし2週間滞在したことがあるけれど、あんなの遊びもいいとこだったし、しいていうならハロッズがどんなところだったを覚えているくらい私の記憶は役立たずだった。
そんなふうにしてロンドンの生活は始まったのだった。