世界ふらふら放浪記

雑記と人生の備忘録

円(まる)について

イタリアのペルージャという丘の上に立つ小さな町で暮らしたことがあります。

なぜペルージャに行ったかというと、

1. ペルージャ外国人大学がある
2. 授業料が安い
3. 講師陣が充実している
4. 物価が安い


そういえば当時、ここの大学に行くと語学が目覚しく上達するという伝説があった(今思い出した)。
果たしてそれは真実か否か。

答えはNOです。そんなミラクルな学校があるならぜひお目にかかりたい。
語学ってやっぱり地道な努力の蓄積に過ぎないと思う。
よく「海外行けば3ヶ月で自然と話せるようになる」という逸話もあるけれど、あれもウソ。
3ヶ月いようが3年いようが30年いようが、話せない人は話せません。他の言語でも同じです。
やっぱり努力しないといけないんです。日本語は特殊ですから、馴染むのには時間がかかります。仕方ない。

ペルージャ外国人大学はその名の通り、外国人ばっかの大学です。
授業料が格段に安いので、他の私立の語学学校へは高くて通えないような人種の人たちも多い。
つまり、国籍が実に豊か。
ドイツ、スペイン、フランスやフィンランドなどのヨーロッパ系あたりは一般的なのですが、その他ウクライナ、ロシア、アフリカ、ブラジル、チュニジアブルガリアなど。まぁこのあたりの国の人たちがペルージャに来るってこと自体、彼らは結構裕福な家庭の出身であることは間違いないですね。
(※英語圏の人たちはほぼいません。彼らは第二外国語を習得しようという心構えがないからです。大陸続きとそうでないのとの違いはこんなところにも現れます。)

当時私が入ったクラスはめずらしく日本人が私だけだったので、必然とクラスメイトはそのような外国人ばかりで、たまたま同郷の友達もいなかったので日本語を一切話す機会がなく、その頃からイタリア語で夢を見るようになりました(別に大した夢でもないけど)。

そんなたくさんの人種の中で、宗教について感じたことがありました。

クラスメイトの一人にチュニジア人の、とても凛々しい男の子(人)がいたんです。
なぜ凛々しかったか、というと。
あらゆるヨーロッパ人の中でも、落ち着いて堂々としており、避難的な態度をされてもあっさりとひるがえすことが出来る。なおかつ、心が穏やかで他人の気持ちを理解できる人だったからです。こういう人って珍しいと思うんです。都会(ヨーロッパ)に出てきたこの系統の人たちは通常卑屈になりがちだからです。

また、彼らの国のような人たちはヨーロッパでも大抵差別されちゃいます。それは明らかに宗教の問題です。カトリックの人たちは私たちが想像する以上にムスリム地域の人たちには厳しい目を向けるのが一般的です。そして彼らのほとんどは避難民や密入国者で、ドラッグや犯罪に手を染める人が多いというのも理由の一つでしょう。

だけど彼らは凶暴性だけで生きている人たちではけしてないんですよね。

ムスリム(って日本語でなんていうんだっけ)は、日本でも明らかに偏見と誤解を招いています。
その偏見は、サダム・フセインやテロ、イラン人の影響が大きいですが、しかしムスリムの締める世界的人口は、カトリックより多いといわれています。そんな大規模なムスリムの信仰者たちは果たしてそんなに悪者なのだろうか。

ある日の話を例にします。

1. ローマのとある教会にて

ミサが終わり、キリストの血と肉であるワインとパンを信者だけが受け取れる儀式が行われていました。司祭が一人ひとりの口にパンを入れる儀式です。
その信者の列の中に一人の中国人が紛れていました。明らかに挙動不審で、私の目からみても「パンが欲しくて紛れた」一人でした。するとそれに気付いた信者の一人が、中国人の首根っこをつかんで列から引きずり出し、大声でどなりつけて外へ放り出してしまいました。


2. バイト先のエジプト人

私が当時ローマでバイトしていたお店にメリーというエジプト人のおばちゃんがいました。
歳は70近く独身で猫と一緒に細々と暮らしていました。すごいヘビースモーカーで、時々口から真っ黒な肺が飛び出してくるんじゃないかと思われるほど激しい咳をしていました(おもしろい人だったんです)。明らかに彼女は生活が豊かではなく、イタリアが嫌いで仕方なく、それでも故郷に帰れない事情も重なり、毎日ブツブツいいながら生活していました。
「あ~!!beabea、今日のこの騒音ひどいわね!全くイタリアって国は人も悪けりゃ空気も悪い。まったくどうしようもないバカばっかりで、あたしは苦痛で苦痛で咳だってとまりゃしないよ。」
ってな感じです(笑)↑咳の原因は違うと思うよってツッコんでおきました。

ある日、メリーの家にお呼ばれして出かけたところ、いつもは近所の100円ショップで用を済ましている彼女が、それはそれは見事な手料理を沢山作ってくれて待っていました。お肉もふんだんで、野菜もいっぱい。おいしいワインまで用意してもてなしてくれたのです。
「私が育ったアレキサンドリアはね。乞食にだって手を差し伸べるものよ。たとえ自分が明日食べるお金がなくたって、飢え苦しんでいる人を放ってはおけない。その代わり、もし明日。あなたが飢えて道端で倒れたら。あなたが誰かにやったように、必ず誰かがあなたを助けてくれる。そういうようにまわっているのよ。」


どっちがクリスチャンで、どっちがムスリムの話なのか混乱しませんか?
街角でホームレスを見たら手を差し伸べようなんて思ったこと、ありますか?
ないでしょう。私もありません。
メリーの言葉には偽善めいたものは何一つありません。彼女の言葉に嘘はないと思います。
だとしたら、この精神こそ生まれてから自然と身についた宗教の根底そのものじゃないかって思うんです。精神はそこから発祥しているんだろうなと。すごいことだと思います。

ムスリムは非常に厳しい戒律がある故に、なかなか現代の私たちからしたら理解に苦しむことも確かにあるかもしれない。けれど、メリーのようなとっても慈悲深い人たちだってたくさんいると思います。
犯罪は宗教の問題ではなく、言論の束縛や貧困からくるものです。
もちろんそれなりに宗教的な個性はありますが、それは私たちや他のカテゴリーだって同じ事なのだろうな、と。
そして私がこのように一意見をもてるのも、それは私が彼らほど宗教に依存していないから、という立場の違いがある。だから無責任に発言できるのかもしれません。そして言論の自由がなされる国。それはずいぶん恵まれたことなのだという事も自覚しています。

結局のところ、なんでもカテゴライズして見てしまったら一方向しか当然見えないわけで、いろんなものはいろんな良き悪しきものが一つに繋がり、円(まる)になって完成されているように思うわけです。

ま。これは私の意見っていうことで。

このようにイタリア行って、いろんな現実を目の当たりにして、様々な質の違うカルチャーショックを日々猛烈に平手を食らわせられたかのごとく受けたんですよね。

海外に行って語学を覚えるのは当たり前。出来なかったら話にならない。
だけど同時に、語学なんて別に100%完璧なんかじゃなくたって全然構わないと思う。
そんな事よりもっと知るべき・・・というか、知っていてもいいような事はたくさんあるんだと思うんです。

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ペルージャ大学の本館正面。画面右下の赤いドアの左隣りが毎日通った雑貨やさん。)


あ。
でもイタリア語なんて日々どんどん忘れてしまってますから偉そうには語れません!
あしからず。