世界ふらふら放浪記

雑記と人生の備忘録

月と六ペンス/モーム

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2006年は私、本の「当たり年」で数々の素晴らしい本に出会いましたが、これはそのきっかけとなった本です。恥ずかしながらも私はこの本を初めて読みました。
そしてあまりにも引き込まれる展開に先を進むのがもったいなくて、大切に大切に読みました。

これは画家ゴーギャンの破天荒で波乱万丈な半生を、もう1人の主人公からみた視点で語られるストーリーです。(もちろんフィクションで実在のゴーギャンの「まんま」の話ではありませんが、似通っている部分はいくつかあるようにも感じます。)

作品の中でゴーギャンは、ある日突然家族を捨て、仕事を辞め、「絵を描きたくなったから」とたった一人ロンドンからパリへ経ってしまいます。その後消息も知らせず貧しい生活をしながら時に友人を裏切り、時に恋人を裏切り、最後は終焉を向かえた場所、タヒチへと旅立ってしまう。

大きな体で無精ひげをたくわえ、汚い身なりをし世間に全く同調することもない。
シニカルな笑みで他人を嘲笑し、無口で他人の話にも動じない。
彼の、周りを省みない身勝手な言動と一般的なルールから逸脱している独特の価値観に、当然人は否定的でこう言います。
「なんて我儘で野蛮な男なのだろう」と。

そもそも生き方の「定義」って何?

枠を作って型をはめるような
木靴のような生き方が人の定義?

その木靴の定義からはずれたらそれは果たして本当に非道な生き方なのだろうか。

だとしたらその木靴の型は誰が作り上げたものなのだろう。隣の人、自分、それとも赤の他人?
でも本来靴は、「その人の足にあったものでなければ履きこなせない」。

人生とは彷徨い歩き続ける事で、幾度となく分岐点に立ち止まり、また進んでいくもの。
もちろんその先に何があるのかも誰も分からない。
自分がどうなるのかだって誰も分からない。
一つだけ分かる事は、その道を他人の靴を履いて歩いてみたら、きっと疲れちゃうんだってこと。
きっとその道中は平坦な道ばかりではないのでしょうから。
皆が同じ型にはまることはできないし、
私の木靴の履き心地を誰かに試して欲しくても、
やはり誰かのサイズにマッチしなければ足を痛めさせてしまう事になるかもしれない。
でもひとくくりに、一足の靴を指して「彼はこの靴が合わないからおかしい奴だ」と定義づける事は、もちろんできません。

他人に何と言われようと流されない、自分の足に合った自分なりの歩き方で。


(以下抜粋「ゴーギャンのセリフ」)
「人間の中には、ちゃんとはじめから決められた故郷以外の場所に
生まれてくるものがあるとそんなふうに僕は考えている。
生まれた土地ではかえって旅人であり、幼い頃から見慣れた青春の小道も、
かつては嬉々として戯れた雑踏の町並みも、彼らにとっては旅の宿りにすぎないのだ。

よく人々がなにか忘れがたい永遠なものを求めて、遠い、はるかな旅に出る事があるが、
おそらくこの孤独の不安がさせる業なのであろう。
それとも心の奥深く根ざすアタヴィズム(隔世遺伝)とでもいうべきものが、
旅人の足を駆り立てて、遠いはるかな歴史の薄明時代の中に、
彼らの祖先たちの捨てていった国々を、ふたたび憧れ求めさせるのであろうか?

ときには漠然と感じていた神秘の故郷をうまくたずね当てることがある。
それこそは求めていた憧れの故郷なのだ。
そしてむろんまだ見た事もない風物の中、また見も知らぬ人々の中に
まるで生まれた日以来、そこに住み続けていたかのような心安さをおぼえる。

そしてそこにはじめて休息(いこい)を見出すのだ。」


モームの書くゴーギャンの半生は、けして粗野でもなく乱暴でもなく、
心の芯をしっかりと持った、ある男性の生涯。
そして休息(いこい)を求めてやはり彼も彷徨う1人の人間にすぎないのだと私は深く感動しました。

価値観だ定義だ理屈だと色々言っても、結局人が求める着地点は同じような気がする。
「ハッピーになれたらいい」ですね!