行ってきました、3年ぶり?の押上。
「たばこと塩の博物館」が渋谷から押上に移転していたとは知りませんでした。
たまたま気づいたけどそうじゃなかったら渋谷行くところでした。危なかった。
すごく辺鄙なところにあるんです。
今までは渋谷の一等地だったのに。
見たかったのはこちら。
入り口。
中はすごくきれいな建物でした。
意外と人がたくさんいたのに驚きましたが、ほとんどがこの企画展にきてたみたいです。中高年から年配の方が多い。
が。
そこには私の知らない和田誠さんがおりました。
もうなんというか、「天才」そのものだった。
すばらしかった。
和田氏、多摩美一年生時代のカエルの絵、一般公募で一等受賞。
(審査員のコメントもおもしろい)
同世代、大橋正氏作。
いや~ビリビリきました。こちらは大橋歩氏。
当時もいくら商業的文化だったとはいえ、今よりもっと自由に好きなことを表現できた時代だったんじゃないかなーとつくづく思いました。
こちらは和田氏。こんなポートレイトも描いたりしてたなんて驚き。
近頃のポスターってCG加工された色がパキッとしたデジタル的な写真ばっかりで、なんかこの手描きの温かみをしばらく忘れていたような、目の覚める思いでした。
文春砲改め、週刊文春の和田氏記念すべき第1号、1977年。
右はそのオマージュ、2000年。
文春の表紙なんて今まで気に留めたこともないけれど、こうやってみるとどれもこれもが芸術作品のように感じずにはいられませんでした。
それぞれ、季節、動物、食べ物、風景、静物に分かれていて、それを繰り返しお描きになってらっしゃいますが、文春に関してはお得意なはずのポートレイトが一枚もないのが特徴的です(おそらく出版側からNGなんでしょうが)。
真ん中のジャガイモの表紙。
同系色、同じテーマでここまで多種多様なじゃがいもの使い分けがリズムよく描かれている。どうやらこの「同系色シリーズ」が私のツボにはまったようです。
真ん中の赤と白と黒の女性の表紙。都会的なホッパーの作品を彷彿させます。
枝豆の表紙。同系色のトーンでここまでの説得力。
山脈の表紙。同系色でこの遠近感と静寂感、壮大なスケールを感じます。
すごいです。
イラストはもちろんなんだけど、どれをとっても構図が抜群にすばらしいです。
下、いちごのカップもかわいいけど左の馬車なんてすばらしい間の取り方。
右下のバナナとその真下の猫なんかは天才的だと思います。
しかもほとんどご自身のなんとなくな感覚で描いてらっしゃるのだと思います。
桃がたまらなくいいです。。。。
新春号の寅づくし。どうやったらこんな発想が。
いや~壮観!!
和田さんの文春コレクション、間違いなく近いうちに美術書として出版されることでしょう。絶対買う。家宝にする。
展覧会で和田さんの製作姿の映像が流れていて、細い線の内側を慎重に縁取りながら筆を沿わせて色を塗りつぶしていく光景なんかはすっかり夢中になってしまって、そういえば自分も小さい頃絵を描いていたことをはっと思い出して我ながら驚いた。
和田氏のイラストコレクションの中に水丸さんの作品が一枚かけてあって、和田さんのコメントが書いてありました。水丸さんのほのぼの感は実は計算されつくされた空間であって、普通の人がああやろうとしても絶対に描けないのだ、と。
私は水丸さんの生前時代は別に好きでもなかったし興味もなかった(むしろなぜ水丸さんが村上氏の表紙を装丁しているのか腹が立つくらいだった)のに、お亡くなりになってからはもう感傷的というか大好きになってしまって、こうやって故人の話を聞くだけで不思議と今も涙が出ます。
一方で、村上氏の小説が今の世代の人々からはよく「かっこつけてる」とか「主人公が気障」などと揶揄されることが多いのがとても悲しいのですが、こうやって和田作品の当時の世代を目の当たりにすると「そういうのが普通だった時代」だったんだなと改めて強く思うのです。今の目線と当時の目線は異なって当たり前なのです。
そして振り返ってみると当時私がなぜ絵を描くのが好きで、塗り絵を何冊も描き潰していったかというと、絵がもっと身近でまわりにあふれていたからかもしれません。
私たちは想像力をもってまだ見ぬ世界や人物を心に描いていた。
そんな気がしました。
すばらしい企画展でした。
あんな狭い展示室に集中して2時間くらいいました。
<番外編>
この「女チンピラ貴代さん」も冒頭読んだだけでもう引き込まれる。
当時はこういう読み物も今よりおもしろかったのかも。
私が小学生や中学生の頃もなんていうか、大人がかっこいいと思ってた時代なので、大人の話にすごく引き込まれたような気がします。