世界ふらふら放浪記

雑記と人生の備忘録

ローマの警察



久しぶりに「イタリア悲喜こもごも」のコーナーをアップします。

もうネタなんてないなと思ってたけど、思い出すとまだありました。



まず、昔書いたこの記事を読んでいただいた前提で進んでみます。







もうあれからだいぶ歳月が経ちました。ユーロに通貨が統一され、インターネットが普及し、いくらローマとはいえ少しずつ何かは進化してるのだと思います。数年前に帰った時は、地下鉄に電光掲示板が出来てましたし、バスの中には小さなテレビもついて占いとか流していました(バスで見る占いに意味なんかあるのか?)。テルミニ駅だってリニューアルしたしピザの自販機まであったし、テルミニの近くでいつも瓶ビール飲んでたピロピロおじさんもとっくにいなくなっていました。



でも忘れないでください。
生活はけして楽にはなっていないのです。お給料据え置きのまま家賃も物価も高騰し失業率も上がり、相変わらず不法難民は増え続け治安は悪いまま。フィウミチーノ(空港)から市内に行くまでの間に立ち寄ったバールに行く時車中にコートを置いて出ようとしたら友達に「コートを置いたらバックもあるかと思われてガラス割られるから何も置かずに出て」と言われた時に、ああやっぱりそういうところは変わってないんだなと思いました。




当時ローマって本当に治安が悪かったのはご承知のとおりだと思いますが、輪をかけてだめなのが警察。


例えば目の前でスリがあったとしますよね。
たまたま近くに警察がいたとしましょう。
「スリだ」と言ったとしましょう。







果たしてその警察官のうち何人が助けてくれるでしょうか。






警察官はまず盗んだ人を見ます。
その盗んだ人がその界隈の縄張りの暗黒チームの一味なのかそうでないかを見ます。
ローマは大体縄張りがあるので、他の一味が土足で踏み込むことはないです。
だから、その界隈の暗黒チームの一味だと分かったら多分手出しはしません。
裏で賄賂でつながっているからですね。
犯罪を見逃すことなんて超常識。



つまり、スリの被害者よりも犯人のバックにいる親玉の肩を持つのがローマの警察。















目の前で犯罪を見たら絶対に助けちゃいけない。


これも一般人の常識です。


つい正義感が湧いてくるんですけどね、助けちゃダメです。


身代わりになってもいいなら別ですが。









よく海外にいて「助けて」というと誰も反応しないけど「火事だ」といえば一斉に出てくるっていう、あれです。













警察も変なことには関わりたくない。


それだけなんですよ。


どうしようもない公務員ですね。









当時のテルミニは不法移民の巣窟でしたからとにかく人種が様々で、アフリカ系、中東系、ロシア系、中国系が狭いアパートに密集して生きていた時代です。昼間でもラリった中毒患者が街を徘徊し、夜になると売春婦が街角に立ち、偽物ブランドの屋台がずらりと並び(それは今もだけど)、ジプシーと呼ばれるロマ族が食料品を買いにくるような場所。密輸入品は口頭でお願いすると裏にとめてある車から持ってきてくれる。そんなの当たり前でした。そういった界隈に住む私たち日本人もおそらく同類だと思われていたんでしょうね。だから一度そこに溶け込むと逆に安全ってのはあります。よそ者だと認識されるよりも近所のアジア人だと認識されることがとても重要なのです。



聞いてると大変なように思うかもしれませんが、意外と居心地悪くなかったですよ。住み始めると夜歩いても安全な道も分かってくるし、そこでスリとかする人はあんまりいないですから。もちろんいろんなことは気をつけないとならないですけどね。
こっちもそれなりに貫禄ついてくるのかも。住んでる人ってわかるんですよねそういうの。

(前も言ったと思いますが、夜の公衆電話で巨大なアフリカ系売春女子が延々長電話してるのがもう待ちきれなくて「早く電話切ってくれない?」なんて言ってた時代がありましたよわたくしも)



そこに警察はいません。

入ってくることもしません。

見たこともない。

いたとしても見えない。

認識しない。

アテになんか絶対しない。






そこにはやはり私たちの目には見えない縄張りがしっかり根付いているのです。


そんなしみったれた界隈に住むイタリア人もろくなイタリア人はいません。
苦学生を除く)


イタリア人がおいしいイタリア料理を作るのは高級料理店であって、大方は中東アラブ系が厨房で修行して頑張って文句も言わず作ってるんです。死ぬほどおいしい熱々のラザニアやアマトリチャーナを。みんなお金ないからなけなしのチップを置いていくだけですけどね。




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セルビアベオグラードを散歩している時にふいに訪れた駅もそんな昔懐かしい危険なローマの雰囲気があって、ちょっと忘れられない。


ローマと違うのは、私は「よそ者」だということです。


すごく怖かった。


よそ者であることってすごく怖いんですよ。すごくすごく怖い。








そういう自己防衛本能は今でも時々いろんな国にいくとすごく役に立っています。




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いわゆる、国が裏社会とズブズブだとこういうことになります。


ローマだけじゃなく、いろんなところもそんな感じです。


そういう国は大体ダメになっていきます。









犯罪と政治、お金と犯罪、犯罪と政治、というふうにいろんなものが紙一重で連鎖しているので今後も改善されることはないし、改善しようとも思っていないでしょう。






それは需要と供給なのです。
ある意味とてもいいバランスを保って成立しているのです。
だから一般人がある程度犠牲になってもある程度は仕方がない。
身を守れなかった自分が悪かったんだと反省するしかない。
そうならないように自己防衛力を磨くしかない。






そういう国ですイタリアは。





見えない線がしっかりと引かれています。


見える人にだけそれはくっきりと見えます。



















だけど、ひとたびそれに守られると









とてつもない安堵感と絶対的な強い絆を感じるんですよ。

















ちなみにローマ以南でマXィアって言葉は絶対使っちゃダメですからね。