世界ふらふら放浪記

雑記と人生の備忘録

シャルリーエブドに思うこと

(これは一週間前くらいにチョロっと書いて、おととい一気に書き上げたのですが、この二日間くらいすぐ寝てしまって放置してしまい、今日に至ります。なんかの待ち時間とか暇つぶしにでも読んでください)



最初にこの報道を聴いたのは事件から二日後の夜中、帰宅後にラジオを聞いていた時だったと思う。朝起きたらニュースでそのことをやっていて、その日の夕方からパリのあらゆるサイトで下記の文言をやたら見るようになった。



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これは一体なんなんだろうとGoogleで検索してもあの日はまだ日本語ではほぼ情報はゼロ。フランスに住む数人の日本人が書くブログなどでなんとなく状況を把握する。


すでにご存知と思うが、これは「私はシャルリー」と表明することで、追悼と抗議を示したメッセージ。実際にシャルリーエブド社のHPに行くと、血塗られたペンを持ったイラストと共にこのメッセージがトップページに掲げられ、スローガンをDLできると誰かのウェブサイトでみたけど実際は何も操作できなかった(今はどういう状況かは知りません)。

「Je suis Charlie」運動は事件からたったの二日でどんどん拡散されていき、アメリカやヨーロッパのあらゆるサイトでも目にするようになった。すさまじいスピード力である。さらにはパリだけでなくフランスのあちこちで集会やデモが行われ、全員がこのプラカードをもってシャルリーエブド紙の銃撃戦犠牲者の追悼と、表現の自由に対抗する過激派テロに屈しない決意表明をしていた。

日本はというと、パリとの距離感もあるせいかいたって穏やか、今のところこの「私はシャルリー」運動はまだ浸透してきていないし注目もされていない(※1/9時点)。トップニュースでは事件の様子は報道しているけれど具体的な報道はあまり入ってこなかったので情報なかなか得られず、このシャルリー活動がどういうものかをやっと後になって理解した。



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今回の一連の事件、どうも気になってしょうがない。イスラムを冒涜した風刺画がきっかけでテロが起きた。犠牲者が12人も出た。表現の自由の侵害だと民衆が立ち上がった。ここまではいい。問題は「Je suis Charlie」のスローガンだ。なんか腹に落ちないし違和感を感じてとても気持ちが悪いのである。



果たして「Je suis Charlie」は正しいスローガンだったのか。



風刺画というのはもともとネガティブな要素を含んでいるから風刺なのであり、表現の自由というのは一般的な世論とは対極の発言も守られるべきことをいう。ただし今回のシャルリーエブドの風刺画を一通り見ると、かなり挑発的で攻撃性があって、ムスリムではない私ですら嫌気がさすような際どい挑発としか見れない。簡単にいうと「ペンの暴力」と取られても仕方がない有り様である。ついでに言うと、イスラムだけを揶揄しているわけではなく、カトリック福島原発もネタにしているからイスラムだけを集中的に攻撃しているわけではないのだが、いずれにせよ不愉快になる作品を多く出している個性的な新聞社だったのは間違いない。だから、「Je suis Charlie」という文言をみるとどうも腑に落ちない。Charlieという言葉が「表現の自由」の象徴だと言われても、少なくとも私はその言葉をみるとあの風刺画を連想してしまい、自由の獲得論争、テロ撲滅という言葉を頭に描けないからだ。






ところがどうだろう。一週間が経って昨日あたりから今度は「私はシャルリーではない」スローガンがちらほら出てきた。おそらく似たような感情を持つ人もそれなりにいたということだと思う。そしてそれまでは表現の自由は守られるべきだ一色だったはずなのに、アンチシャルリー発言が飛び交うことに今度はちょっとゾッとした。そして、そのコメントを読めば読むほどこれまた違和感を感じてしまうのであった。

そういう世論が少しずつ変化していく様子をみながら一週間経って少し自分の意見も変わってきたりもしたので下記にまとめてみた。
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> 風刺画のことについて
最初はやりすぎだと思ったし今でもそう思う。だけど一週間経って知ったのは、なにも過激な風刺はシャルリーエブドに限ったことではないということ。あるロンドン在住の日本人がこう言っていた。「イギリスでも王室批判は半端ない。風刺どころかコテンパンにやっつけるくらいの勢いでこき下ろす。それでも問題にならないのは、表現の自由が認められているからだ」と。つまりそういう慣習が昔からあるからいちいち社会問題なんかにならないということだと思う。
では日本でそれがあったらどうだろうと考えてみる。天皇批判で風刺なんてしたらそれこそ。。。ノーコメント。更に日本は表現の自由と言っても抑制された教育を受け道徳心を徹底的に叩き込まれているから、誰かを批判したり間違いを間違いだと言う前にまず周囲の批判を気にしてしまうし、シャルリーのような行き過ぎた風刺画をみても悪いジョークどころだと見逃すどころか、傷つけられた心情と相手のことを思って良心の呵責に胸が痛み腹が立つ。だからフランスと日本では「表現の自由」に対する決定的なメンタリティーの違いがあるのだということに気づいた。日本でシャルリー運動が起きないのもとても合点がいくし、報道はどちらかというと保守的なんだと思う(自分も含め)。もちろん、フランス人みんながシャルリーを擁護しているとは思ってないし、彼らに道徳心がないと否定しているわけでもない。ただ、一個人の意見がどんなよがった方向であれ発言することは罪ではなく、ましてや暴力で抵抗されることは大きな間違いだという主張なのだと思う。これに対しても100% agree。実にフランスらしいし間違ってもいない。


> イスラム教徒
アッラーは自分の親より大切にせよと教育を受けてきたイスラム教徒。今回の一連の事件に関するその心境はそんな日本人に複雑であることは間違いない。同時に、9.11の時のように迫害されやしまいかと懸念も感じてしまう。今回のパリ銃撃事件の犯人と一般人のイスラム教徒は無関係なことは明白だけど、残念ながらそう思ってない欧州人だってたくさんいる。もともと反ムスリム派のレイシストが多いのも事実だからだ。実際にドイツ人がトルコ人を罵倒している発言をこないだも聞いて、やっぱりこの問題は根深いなとつくづく思ったところだった(そのドイツ人はもともと東ドイツ出身なのによく言うなと思ったけど、小さい頃から海外いろいろ渡り歩いているのでボンボンの坊ちゃんだから迫害の意味がわからないのだと思います)。フランスは数年前もブルカ問題でもめた経緯もあるし、イタリアだってユダヤ人の帽子が目障りだと文句をいうくらいだし、ブルーモスクに行けばイスラム教の教えを説く英語版パンフレットが床に放り投げられている始末。異教徒を受け入れるまでには高くて厚い壁がいまだに立ちはだかっていて、それはとても根深い。異文化は受け入れられても異教徒は別問題なのだ。
こういう感情はもしかして日本にとってはあまり馴染みのない思想かもしれない。また、何かとすぐ宗教戦争に結びつけて宗教がどうのこうのと言う日本人もいるが、もう何十年も経っているのにいまだにイスラム=宗教=イスラエルパレスチナの争いで連想すること自体が時代錯誤も甚だしいなと思ってしまうし、つくづく当時のイスラムに対する日本の報道におけるインプットが私たちにとって印象的だったのかを思いしらされる。イスラエルパレスチナの確執はまだ継続しているし、宗教問題や土地の問題、思想の相違が関係しているのは事実ではあるが、なんでも宗教にかまけてそこが問題だと容易に発言することはそれこそ差別的だと思う。


> 長引くフランスの不況
フランスはこの10年間、ずっと混沌としている。とにかく景気が悪い、失業率が高い、ユーロ導入の誤算、ギリシャ破綻のツケ、物価の高騰、多額の負債などで国民の不満は爆発寸前でストレスは相当膨れ上がっている。同時にできるだけ外国人のマンパワーをすり減らして国民へのベネフィットを増やそうという動きもなかなかうまくいかず、治安が悪くなる原因とする移民の排斥運動は欧州国内でも押し付け合いになっていていまだ解決のめどがない。だから今回のテロやデモは政治家から見るとちょうどいい国民のフラストレーションのはけ口になるから都合がいいのだという見方もできる。しかもほっといても移民問題に集中してくれるから一石二鳥なのだ(さらにはついこないだフランス軍が中東のどっかの国に軍事介入してたような気が。だとしたらそれを正当化、、というか、納得させるいい動機付けにもなる)。


> メディアの情報操作
あと今回思ったのは、やっぱりSNSの力ってすごいなということ。これだけのスピード力とパワーをもって民衆をあっという間に巻き込んでシャルリー運動につながるのだから。一昔前だと考えられないことだと思う。テレビとラジオだけの時代は終わったなと改めて感じると共に。表現の自由を許されていない国もまだ世界にはいくつかある。そこですでに情報操作の格差があるから国同士にハンデが生まれてしまう危惧感も感じた。メディアの弱肉強食。


> シャルリー紙のビジネス手腕
シャルリーエブド最新号が発行された。すでに300万部が刷られ16カ国に翻訳された(※1/8時点では500万部)。表紙は再びテロ批判の風刺でムハンマドが「Je suis Charlie」のプラカードをもって罪は赦されると書いてある。もともとこの新聞の平均発行部数は40万部とのことだから、結局過激な風刺をネタにしないと売上作れなかった新聞社、今こそ儲け時なのかなとシラけた気持ちでつい見てしまう。
これに対して今日のネットをみると日本の反応はとても厳しい。すごい驚くことだけど、テロで犠牲者が出たというのにテロではなくシャルリーとフランスに嫌悪感の矛先が向かっているなんて驚いてしまう。かつてこんな事例があっただろうか。個人的には日本のこの反応そのものも衝撃的である。
私は、シャルリー運動にはどうしても違和感を覚えると言ったし、今でもそう思う。万が一日本でも同様のデモが起こっても絶対に行かないし、シャルリーの標語も使ったりしない。だけど、彼らが何を作ってどう発表しようが、それを正当だ不当だという権利は私たちにはないと思う。それこそが表現の自由だと思う。そこを取り違えてもいけない。もしシャルリー紙を叩き上げて拳なんかあげたりしたら、それこそ過激派テロを容認することになってしまう。タリバンや過激派テロの人質が結局犠牲者になってしまうのは国のそういったゆるぎない意志表明だから、そういった人たちの死も無駄にしてはならない。


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長くなりました。
読み流しOKです。
過激な発言あったかもしれません、気分を害する発言や、知識不足のくせに勝手に発言してるところもあるかもしれません、すみません。

しかし、このデモが勃発した時にも思ったことだけど、フランスはフランス革命したくらいだから国民の潜在力は底知れないと思いました。自分たちの力で国を倒し自由を勝ち取った国だから、やっぱりこういう事象にはすごく敏感なのですね。改めてフランスの根底にある力強さを感じました。オーランド大統領も多分こんな民衆の結束力を見せつけられた以上、クーデターなんか起きたらたまんないなと思ってると思う。しかもこないだの集会でシャルリーの生存者と話している時に、大統領のスーツの肩にハトのフンが落ちたとかで話題にもなってましたが、「ハトのフンは幸運を招く」というイタリアのことわざもありますので、どうかオーランド大統領に良いことがありますように。