世界ふらふら放浪記

雑記と人生の備忘録

須賀敦子全集第1巻

須賀さんの本をようやく手にとって読んでみることが出来た。
たまたま調べたら須賀さんの全集が河出文庫から出ているとのことだったので、とりあえずそちらから読んでみることにした。この本には実に三冊分のエッセイが収められているのでとてもお徳感がある。


須賀敦子全集 第1巻

・ミラノ霧の風景
・コルシア書店の仲間たち
・旅のあいまに

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須賀敦子さんという方は、1953年にヨーロッパへ留学で渡り、その後1958年から13年間に渡って過ごしたイタリア、ミラノでの生活を生き生きと描いたエッセイスト兼翻訳家。イタリア人のご主人を亡くされてからしばらくして日本へ帰国後は、大学教授や執筆活動などに専念され、実際に今こうやって手にとって読む本は全て帰国して60歳のあたりから書き始めたというのだから驚かされる。
須賀さんの訃報を聞いたのは数年前。しかし今でもその実感がないのはその語り口が自然体で古臭さがなく、何も変わらないイタリアの風景を思い描くことができるからなのかもしれない。


須賀さんほど長い間ではないにしても、私もイタリアに暮らし多少なりの経験をしたが、須賀さんの住んでいたミラノと私が住んでいたローマは、同じイタリアでも地理的に異なるのと同じように価値観もかなり異なる。また、当時のミラノは私が生まれるより前の話であり、いくら時間が止まったままのイタリアとていえ、年代的に開きがあるからけして同じ比較対象として私がここで語ることはできないということ。さらにもう一つ言わせてもらうならば、須賀さんは環境が明らかに恵まれていたのだと思う。知り合う相手が貴族だったり著名人だったりお金持ちの外国人だったり、だから話を読んでいても何となく実感として胸にストンと落ちてこない部分があったのはどうしても否めない。明らかに別世界の話なのだ。

だから自分の経験と重ねてこの本を読むという感覚とはちょっと違った。





ただ、須賀さんのエッセイを読んでいると、「栄枯盛衰」という言葉が実にピッタリだなって気がする。

楽しかったコルシカ書店の日々と、一緒に苦楽を共にした仲間たち、そこを通り過ぎた人々。

辛いことは永遠ではないのと同じく、楽しい日々もいつしか終わりがくる。


そういう輪廻の繰り返しを人生と呼ぶのだろうけど、過ぎ去ってしまった思い出と、変わってしまった当時の仲間との間の距離感、どうしようもない寂寥感などを考えると思わずジーンとしてしまった話もいくつかあった。









「おはようございます」
「ありがとう」
「どういたしまして」
「バスの切符を一枚ください」
「お腹が空きました」
「○○にはどうやって行くのですか」

・基本動詞活用の基本的な規則
・簡単な名詞



独学で学んだこれらの片言のイタリア語と辞書、文法書一冊で、私が身よりもないローマへ単身旅立ったのを今でもつい最近のことのように感じてならない。


その頃には明確な夢と揺るがない希望があったから怖くなんかなかった。
日本で必死に働いて貯めたわずかな資金とその夢と、一体自分がどこまでやれるのか限界を知ってみたかった。

結局、数ヵ月後には容赦なく現実という重いハンマーに殴打されることになり、現実を知れば知るほどに少しずつイタリアを恨み始めることになるのだけど(笑)、私のイタリアの生活は限りなく底辺に近いものだったような気がする。日本にいる生活とはまったく真逆の生活だ。でも当時は乗り越えるべきものは生活レベルじゃなくてもっと別のことがたくさんあったから、貧しい生活も寒くて陽の当たらない部屋もお湯があまり出ないシャワーも、小さいストレスではあったけれど、その不平を言えるほど贅沢な暮らしは出来なかった。


さて、今まであまり語る気分になれなかったから旅行記ばっかり進めていたけど、
そろそろ本気でイタリア生活について語り始めようかなと思う。



須賀さんの本は、来年に第2巻を読んでみようと思う。