世界ふらふら放浪記

雑記と人生の備忘録

はつかねずみと人間/ジョン・スタインベック

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大好きな本です。

(あらすじ)
しっかりもののジョージと、ちょっとおつむの弱いレニーは幼なじみの労働者。
いろんな農場を二人で渡り歩いては小金をためる日々。
でも二人の間には、先の暗い未来は全くみえてこない。
なぜなら彼らには、大きな夢があるからだ。

(抜粋:ジョージのセリフ/野宿のシーン)
他の労働者ってやつは、ただ渡り歩くだけで先に希望もなんもあったもんじゃねぇ。だけどおれたちはそんなんじゃない。先には望みがある。互いのことを気にかけてくれる話し相手がちゃんとある。ほかに行くところもねえからと、酒場に行って金をむだ使いすることもいらねえ。ほかのやつらはブタ箱に入ってしまえばそれっきりだ。だめになっちまう。でもおれたちはそんなんじゃない。

(レニー) 「いろんな色のうさぎを飼おうね、ジョージ。」

(ジョージ)「ああ、青や赤や緑のうさぎをな、レニー。何百万と飼おう。」
(レニー) 「毛のふさふさしたやつをね。サクラメントの見本市で見たようなやつを。」
(ジョージ)「毛のふさふさしたのをな。」
(レニー) 「ジョージ、おれはどこに行ってしまってもいい。ほら穴にすんだっていいんだ。」
(ジョージ)「地獄へいっちまったっていいよ。さあ、もう黙れ。」

<川向こうの丘の上でコヨーテのなく声が聞こえ、こちら側から犬が鳴き返している。スズカケの木の葉がかすかな夜風にさわさわと鳴った。>

どんくさくてお人よしで正直者でまっすぐなレニー。
どうしようもないながらも、優しくてあったかいレニーを憎めずにはいられない。
その実直な性格が、のちに悲劇へとつながるとは・・・。

ラストが衝撃的です。
カッコーの巣の上で」を思いだしてしまうようなラストです。
レニーを何よりも大切に思っていたジョージの一途な優しさなのか・・・優しさ。

優しさとは時に残酷になりがちである。
けれど、目に見える表面上の言葉や態度が優しさではない。(難しいですね、判断基準は人それぞれだから。)
相手にとって一番良い結論を、ジョージは出してあげたのだろうと思うし、
きっとレニーもそうされる事が幸せだったのだと思う。極論としては。


夢が「夢」というカテゴリーから消去されてしまった切なさ。
虚構の世界の中の、無垢な人間が生きていくことのはかなさ。
社会という名の暴力から擁護せざるを得ない苦渋の決断の辛さ。

同時に人と人の心の深さと寂しさを、じんわりと語っているお話。
読み終えた後のとんでもない寂寥感は何とも言いがたいし、なんかこう、胸をつままれる思いです。

「大好きな本」と言ったのは、けして悲話が好きというわけじゃなく(いや、好きなのかな(笑))
一般的に見たら小さな夢や他愛もない出来事であったとしても、ひたむきにそれに向かって生きている人間がどうしようもなく愛くるしいわけで、季節労働者だからとか実業家だとか失敗だとか成功だとか社会におけるステイタス云々じゃなくて、いかに自分が納得した基準を持っていられるかってところ。

小さくたっていいじゃないか!
大きくたっていいぞ!
(問題はそこじゃないから)

また、こういう日陰の隅でひっそりとチマチマやってる感じがいいんです。
ま、私もチマチマな人生ですからね、共感しちゃうんでしょう。

あとがきによると、タイトルはスコットランドの詩人ロバート・バーンズ「ハツカネズミに」からとったものらしいです。

ハツカネズミと人間の このうえない企ても
やがてのちには狂いゆき
あとに残るはただ単に 悲しみそして苦しみで
約束のよろこび 消え果ぬ


先日の旅行にて、原作を買ってみました(英語は読んだ瞬間に眠くなりそうですが)。
「夏に読むコーナー」に置いてありました。微笑ましい。
また余談ですが、「グレート・ギャッツビー」も同じコーナーに置いてありました。
つい最近NYではギャッツビーブームが吹き荒れ、猫も杓子も電車でギャッツビーを読んでいたそうです。

ではまた。