そもそも読書というのは読みながら自分なりのイメージを投影して作る各々の世界というものがあるから映画化というのは正直あまり好きではなく、特に村上春樹小説はとても繊細なので実写化は極力避けてきた。また、作家本人は脚本や作品に一切口出ししないというポリシーも貫いているので、原作と映画の世界観は全く別物といっていいと思う。
この映画は村上春樹短編小説集「女のいない男たち」に収められた「ドライブ・マイ・カー」、「シェエラザード」、「木野」の三編から着想を得て作られたオリジナル脚本の映画。西島秀俊さんと岡田将生さんという旬の俳優さんがでていることもあったし、ドライブ・マイ・カー」と「木野」は好きな短編小説であったこと、そしてなんといっても外国での評価が軒並み上がり始めたので、ちょっと重い腰を上げオミクロン感染に配慮して一番空いている最寄りの映画館に平日の夜にでかけた。
率直な感想を言うと、ものすごくよくできた映画だったと思う。
物語のあらすじ
ある一人の俳優が突然妻を亡くす。しかしその妻はある若手俳優と浮気をしていた。俳優はそのわだかまりをぬぐいされないまま何年かが経ち、ある日舞台監督として召喚された時、そのオーディションに妻と浮気をしていたあの若い俳優がいた。彼はなぜ現れたのか。妻はなぜ浮気をしたのか、彼女がなくなる最後に言いかけたこととは一体なんだったのか。
というのが大筋。
そこにもう一人、臨時で雇われた無口な若いドライバーの女の子が登場し、俳優、俳優の妻、浮気相手の若い俳優、無口な女性ドライバーという四人の役者によって二つの大きな物語が展開する。
まずは絶対避けられない性描写やセリフがでてくるのだけれど、あまりにもねちっこい露骨なものは苦手で正直嫌な気持ちになる。特に実写化となるとその部分だけが別で切り取ってほしいくらい嫌悪感を感じてしまいそこがマイナス。そして、原作ではもっとおぼろげでシルエット程度にしかみえなかった妻の存在が、映画ではリアルにしっかり描写されていたのだが、正直この妻に対して一切感情移入できなかったところはもっとマイナス(お友達になれないタイプだと思う)。
そんなわけだから、映画の中の妻の気持ちはいまだに私もよくわからないままなのだが、この映画がよくできていたと思うのはもっと別のところ。
受け取ったメッセージは二つ。
①自分が犯した間違いはいつか必ず清算されなければならない
なぜならどんなに日常が当たり前のように過ぎていっても、「罪を犯したその日からあなたの世界は変わってしまうからだ」。うしろめたさを隠して生きていくことができるほど人は強くなれない。仮に逃れられたとしても、背徳感は一生ついてまわるだろう。
②運命にあらがわないこと、でも希望は大切なこと
取り返しのつかない後悔、理由なき矛盾や行き場のない制裁を背負って苦しんでいる人がいるとしたら、その人たちに対してのメッセージ。
でも仕方がないわ。生きていかなければ!
ね、生きていきましょうよ。
長い、果てしないその日その日を
いつ明けるともしれない夜また夜を
じっと生き通していきましょうね。
運命が私たちに下す試みを、辛抱強く
じっとこらえていきましょうね。
今のうちも、やがて年をとってからも
片時も休まずに、人のために働きましょうね。
そして、やがてその時がきたら
素直に死んでいきましょうね。
あの世へ行ったら、どんなに私たちが
苦しかったか、どんなに涙を流したか、
どんなに辛い一生を送ってきたか
それを残らず申し上げましょうね。
すると神様は、まあ気の毒に、と
思って下さる。
そのときこそ、あなたにも私にも
明るい、素晴らしい、なんとも言えない生活が開けて
まあ、嬉しい!と
思わず声をあげるのよ。
そして、現在の不仕合せな暮らしを
懐かしく、微笑ましく振り返って
私たち、ほっと息をつけるんだわ。
わたし、ほんとうにそう思うの。
ほっと息がつけるんだわ!
将来は思ったようにはいかないし納得いかないことだってたくさんある。その先の角を曲がれば予測不可能なことが死神みたいに待ち受けていて、明日が突然変わってしまうことだってあるだろう。まさにこのセリフのように生き逝ってしまった、自分の周りの人たちのことを思い出し思わず目頭が熱くなる。どんなに絶望の中を生きることになっても(それが不当なものであったとしても)、優しさというともしびがどれほど暖かく彼らを救ってくれることだろうか。
このセリフは「ワーニャ伯父さん」という小説の中にでてくるもので、映画の中ではこのセリフが劇中何度も何度もさりげなく繰り返され、そのサブリミナル効果の集大成であるラスト盲目の女性が手話で語る無言シーン。それはあまりにも静謐で感動的だった。もしかしたら海外で評価されたのはこのシーンだったのではないだろうか。
自分の気持ちだってうまくコントロールできないのだから他人はもっと難しい
俳優は「自分はうまく傷つくことができなかったのかもしれない」と言う。事実を見て見ぬふりをして、傷ついているのに傷ついたと正直に言えないまま、なにもかもあやふやのまま今に至っているのだと。結局自分の気持ちだってうまくコントロールすることなんかできないのだ。
話を聞いてやること
「僕の知る限り、奥さんは本当に素敵な女性でした。もちろん僕が知っていることなんて100分の一にも及ばないと思いますが、それでも僕は確信をもってそう思います。そんな素敵な人と20年も一緒に暮らせたことを何はともあれ感謝しなくてはならない。僕は心からそう思います。でもどれだけ理解しあっているはずの相手であれ、どれだけ愛している相手であれ、他人の心をそっくり覗き込むなんてそれはできない相談です。そんなことを求めても、自分が辛くなるだけです。しかしそれが自分自身の心であれば、努力さえすれば、努力しただけしっかり覗き込むことができるはずです。ですから結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです。僕はそう思います」
ここは原作とほぼ同じ。岡田将生さんのセリフまわしが抜群にうまかった。
どのようにも解釈できることだけど、けして自分よがりになってはいけないということだと思う。概ねそうであるように、自己主張というのは無意識の反射反応みたいなもので、伝えたいと思う時こそ、理解し合わなければならない時ほど自分勝手になっていないだろうか。
一方で若い女性のドライバーは、北海道の小さな町で暴力を振るう母親と二人きりで育つのだが、その後土砂災害で母を亡くす。命からがら助かった彼女は、ずっと母親に気を遣って生きてきたし自分勝手な母を恨んでいたから、そんな後ろめたさのせいで結局母を助けなかった=殺してしまったんだという思いを心の傷として生きている。
「周りからみれば、大丈夫だ。それはきっと君のせいじゃない。そういうはずだよ」と俳優は彼女に語るのだが、まだ世界は小さく、たった一人しかいなかった母との関係性の脆さと少女だった頃の良心の呵責は、そんな簡単な言葉で終止符を打てるようなものではないとわかっている。それでも、「きっと大丈夫、僕たちは乗り越えられる」と肩を抱き合う後ろ姿がすばらしかった。そんなふうに前半のいろいろな疑問符に対して最後きっちりと仕上げてきたエンディングがこの映画がうまくできていると思った理由。
三時間という長さを感じさせないというのは本当だったし、明らかに海外向けに作った作品というのも明白。だから海外で評価されていることはとても名誉なことだと思う。長い小説をゆっくり読んでいるような、いい作品だった。配役もはまり役でよかったかな。妻だけはダメだったけど。